沖縄の歴史を知る【本土復帰と通貨変更②】
沖縄の歴史について語っていきます。勝手ながら前回の続きです。
$から円へ
1972年5月15日の本土復帰に向けて、沖縄では$を円に切り替える準備が進んでいました。
*ちなみに、当時の沖縄の基地関連収入の割合は30%。現在(6%)の約5倍。
ところが、直前にニクソンショックが起こり、ドルの価値が急落。本土からの物資購入がほとんどだった沖縄では、円への切り替えを急ぐ声があがりましたが、米国の施政権下での対応は難しいものでした。
そこで、当時の琉球政府の副主席(琉球政府のNo2)は、「通貨確認」と呼ばれる手法を検討します。
「通貨確認」とは、ドルを円に切り替える際の差損を日本政府が補償するもの。
*具体的には、ドル紙幣へ確認済のスタンプを押印し、確認証書(呈示票)に証紙を貼って確認したドルの金額を記入する。
副主席は、水面下で本土の政治家と交渉を重ねました。
その政治家とは、税調のドンと言われた故・山中貞則。
*山中氏は沖縄の為、関連する法案を数百も調整したと言われています。
前例の無い事柄に対し、山中氏から相談を受けた大蔵大臣は、強硬に反対しました。
その大臣に対し、当時、総理府長官の山中氏は次のように言ったと述懐しています。
「何言ってんの、俺は沖縄の問題についてはね、大蔵大臣の権限なんか全部総理から委任されているんで、これは自分で実行すると。そしたらね、人間捨て台詞ってのはあんまり簡単に言っちゃいけないね。(大臣)は「勝手にしろ」って言ったんですよね。それで「勝手にする」と言ってから、電光石火に始めた。」【沖縄テレビ】
かくして、通貨確認日は1971年10月9日に決定しました。
その告知は前日の10月8日となりましたが、投機筋を警戒しての事だったようです。
琉球政府金融検査庁は、県内全域の金融機関や公民館で特設窓口を設け、1日でその作業を行いました。
ただし、急場の作業であった為、確認を受けられない住民もおり、また、この日以降の$は補償の対象外となりました。
※上図は、当時の高等弁務官ランパート
*補足*
復帰前の沖縄における最高権力者は、米軍の琉球列島高等弁務官でしたが、当時の弁務官ランパートは全く寝耳に水。屋良主席に激昂して詰問するも、「私も聞いていない」と、にべもなく言われたようです。
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