沖縄の歴史を知る 【コザ暴動】
本日も沖縄の歴史について語っていきます。
この暴動(騒動)は、沖縄市にあるゲート通りを中心に起こりました。
ゲート通りとは、沖縄市にある基地の出入り口から、まっすぐ伸びた歓楽街のある通りの名称です。空港通りとも呼ばれ、今でもライブハウスやインド系の人達のテーラーがあり、往時の雰囲気を残しています。
※現在の様子(沖縄市の観光サイト)
事件のあった同地や近隣は、白人街、黒人街と称される区域に別れ、異なる人種が立ち寄る場所を誤れば、半殺しの目に合うような状況もあったようです(祖母談)。
※当時のアメリカは、有色人種はトイレや座る席も決められ、大学に入ることを州知事が阻止しようとするような状況です。
1970年の年末、このゲート通りを中心に事件が起こりました。
背景はいくつもありますが、特に米軍関係の犯罪についての処置に対する県民の不満は大きかったようでした。当時の琉球警察(都道府県警のようなもの)は、米軍犯罪に関しての通常逮捕が出来ず、また、現行犯で逮捕しても、身柄は直ちにMPに引き渡す必要がありました。
米側に引き渡された後は、非公開の軍法会議に諮られましたが、ご多分に漏れず、無罪や量刑が不当と感じられる判決が多かったとされています。
※太陽が眩しかったとの理由による信号無視の交通死亡事故を無罪とした記録等。
※この年の9月、糸満市(当時は町)において、飲酒運転の米兵が主婦を轢死させた事件も発生しており、不満の要因となっていました(軍法会議で無罪)。
変えようもない現状に県民の不満が高まっていた最中、米軍人の交通事故(酒気帯びの人身事故)を発端として、暴動は起こりました。
米軍の加害者が移送された後、現場に留まり、抗議をしていた周辺住民に対して、MPが威嚇射撃を行います。それをきっかけに騒乱は激化していきます。
暴動の参加者には、Aサイン飲食店(米軍が認定したお店)の従業員や米軍向けのバンドマンもいたようです。
米軍の恩恵を特に受けている人達が暴動に参加した心境について、後のロック協会の重鎮は、次のように語っています。
「ベトナム戦争前後、荒れた軍人とは常に戦いだったんだ。満足いかなければお金ではなくて瓶や拳が飛んでくる。俺の音楽でお金を取る。お客様ではない。暴動への参加は色々な不条理への感情も溢れたんだ」
※米軍向けの商売人については、アメラジアンも一部にいたり(玉城知事も父親は海兵隊員)、その商売の態様等もあって、県民からの差別もありました。また、沖縄戦の記憶も新しく、身内に米軍絡みの犯罪に巻き込まれた人もいました。
最終的に、琉球警察500名、MP300名、兵士400名が動員され、幸いにも死者は出ませんでしたが、車両75台が被害にあいました。
事件後、日本政府は申し入れを行い、軍法会議に琉球政府の代表者が参加出来るようになりました。
復帰前年の1971年のことでした。
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